映画『オデュッセイア』

映画『オデュッセイア』

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 『オデッセイ』しすぎな日本の洋画配給のせい(しかもマット・デイモン主演で本作を含め2タイトルも絡んでいる)で謎なタイトルになっているけど、英語原題は『THE ODYSSEY』。言うまでもなく有名な叙事詩をノーラン監督が映像化したものとなる。

映画『オッペンハイマー』批判に対するアンサー

 『オッペンハイマー』は原爆開発についてオッペンハイマー博士を中心にして描いた作品で連合国、特にアメリカにおける都合と変遷と惰性みたいなものがたっぷりと描かれ、それゆえの戦後のオッペンハイマー博士(別に彼が原爆を作ったわけではなく原子爆弾の起爆を起こすための仕組みを作り上げた科学者たちをまとめていたマネージャーというべき地位の人だった)の戦後の苦悩、そしてプリンストンの高等研究所と原子力委員会で接点が生まれてしまったルイス・ストローズ提督(原子力委員→委員長。商務長官代行)との確執が描かれている。
 本作における批判の一つに広島・長崎への原子爆弾攻撃と被爆者を描いていないというものがある。筆者はいわゆる被爆者3世にあたるが、その立場から見ると被爆者をフィクションが描くという行為は被害者の尊厳を侵す行為に見えて仕方がなく、この批判については形式的にないから叩くという口実にされているだけだという思いが強い。
 それに『オッペンハイマー』でも博士の脳裏に浮かんだ被爆者の姿は存在している。
 またロスアラモス研究所内で被爆地に入った同研究所の科学者が被爆地、被爆者の様子について研究所メンバーに報告しているシーンでは彼らが見ていたもの自体は実際の被爆地・被爆者らの写真が投影されていてそれを見ている俳優たちを撮影したものだった。監督はこの実際の写真を映画で観客に見せる真似はしていない。
 このような監督が慎重に何を見せるか調整した部分について、被爆国日本として許せない、被爆地や被爆者を再現して映像化すべきという大きな単語を自身の立場として批判した人達がいた。筆者はもとより彼らの思う「〜がないからダメ」論法は形式主義に過ぎず、なぜ必要なのか説明が乏しく当事者の立場を横取りしているだけだと思っているわけですが、ノーラン監督は『オッペンハイマー』の次回作となる『オデッセイア』でその形式主義に対してアンサーを示した。
 『オデッセイア』はエンタメ的な剣戟シーンも盛り込みつつ、一方的な殺戮、敵軍も住民もお構いなしの殺戮スプラッターな市街地戦も描いている。ある作戦についてその発想を悪夢の世界への扉になったとしたり、オデッセウスに対する敬意の表現としての足踏みがあったりするのは『オッペンハイマー』からの引用やセルフ・オマージュだと思いますが、スプラッター描写は神話を映像化するに際してヒロイックではなく人が犯してはならない禁忌を一つ踏みにじって破ったかのような生々しいグロ表現となっていた。
 本来神話物語でここまでやる必要はないのではと思う。が、むしろやるしそれも徹底的に血飛沫と殺戮、血に酔った英雄や将兵たちを描いた意味は、その生々しさがいかに目を背けるようなものであるかを示してもいた。人は理屈の上であのような行為はあってはならないと思うが、あのような大量殺戮どころか平気で処刑までやるような状況下ではその禁忌が簡単に無効化される。
 本作でかようなシーンが必要だったかと問われると必要だったと言われるように作られていたというしかないところがあって、なくても良い形で神話を語ることもできたはずだが、そうしていない。それが結局『オッペンハイマー』に対する批判へのアンサーだと思うわけです。
 『オッペンハイマー』は博士があると思った罪についてどのように乗り越えようとして挫折して裁判紛いの非公開ヒアリングで意図的な晒し首の場に据えられた人の物語です。彼は戦後来日もした事があるけども広島と長崎に足を踏み入れることはなかった。彼はその理由を語った事はないが、辛いから踏み入れられなかったか謝罪を求められても立場上できないし、またしたところでそれが欺瞞だという思いは確実に残る。そういう性質のものだった。
 そんな彼の視点を考えると被爆地と被爆者の再現や実際の写真を映画で見せる意味はない。単にそれがアメリカの罪を描くと信じている人たちにとって溜飲を下げる効果があるに過ぎない。私はそういう見世物がないから『オッペンハイマー』を評価するし、その演出方針に強く共感を持っている。

 それにしても『オデッセイア』エンタメとしての剣戟と殺戮と血飛沫のスプラッターからの戦争の残虐さを描くという二面性を追及しているのには驚かされる。構成を工夫しているところがある訳です。サイクロップスなど原典にあるような神話的な生き物から魔法みたいなもの、そして黄泉の国とのゲートウェイみたいなやつまで出てくるようなエンタメ作品なので普通に全部生々しいスプラッターにしてもい意味がないし、してもいない。そんな作品の中で終盤の主人公の回想の中で初めてFPV的な視点のカメラワークを持って殺戮と呼ぶしかない行為を犯す兵士たちを出してくる。英雄譚のはずなのにその英雄と呼ばれるきっかけになった戦争の最終盤の残虐性を徹底的に描いている。これは編集構成の工夫でもたらした効果だと言える。ここまで準備しないとエンタメでこの種のテーマは扱えない。そして『オッペンハイマー』は史実としての博士の言動を見る限り、出せば欺瞞だったというしかない構造がある。

「鳴弦(めいげん)」は邪を払う

 オデュセイアは狩猟で弓を手に獲物を追う際には「公平」(フェア)な戦いとするためにとして弓の弦を引き放して高らかに音を響かせた上で逃げる獲物を追っている。とんでもない剛腕にして名射手なわけですが、この弓を鳴らす行為(鳴弦)というのは日本だと邪を払う儀式として行われていたりする。
そういう慣習を知ってか知らずかともかく本作での鳴弦はとても印象的なものがあった。

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朝「えみり既読おそーい」(『違国日記』6巻より)

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