シベリア拘留記
日本アカデミー賞を受賞した二宮和也主演の『ラーゲリより愛を込めて』を観て、シベリア抑留記を出版した宮内省一氏の本を思い出して読み返した。
『ラーゲリより愛を込めて』の山本幡男氏と朝ドラ『あんぱん』の柳瀬嵩氏、宮内省一氏の著書、そして祖父のことがそれぞれ重なってくる部分が気になり調べていくうちに概略をまとめておこうと思った。
始めたのは8月。これがなかなかまとめ難い。少しずつ書いては最初から読んで確認。その度に直したり削ったり続きを書いてはまた始めから見直しをと繰り返していくうちに月日は流れていった。
読書会で宮内氏に直接お会いしたり手紙のやりとりがあったせいか思いが溢れてくる。肉筆の手紙の文字はメールとは比べものもないほどダイレクトに響いてきて温もりが伝わってくる。加えて子どもの頃からの生い立ちが書かれた自伝を読んでから正直に誠実に書かれた文体に親しみを覚えるようになった。
最初の自費出版された本は700部くらいらしい。700人の手にしか渡っていない。その次のシベリア編との2冊を合わせて光陽出版社から出版された本は今は在庫切れになっていて入手困難な状況になっている。
宮内省一氏の著書は
初版『ソ満国境守備隊 最後の初年兵 砲兵隊勝鬨に在りて』
『続 最後の初年兵 シベリア抑留記』
そしてこれらの2冊をまとめた『最後の初年兵 ソ満国境守備隊』。2009年に出版されていたのを知り急遽取り寄せて読んで確かめた。
他に、宮内氏から2冊目の『続 最後の初年兵 シベリア抑留記』を購入の際 同封してくださったのが自伝の書 『わたしの釜石物語(上)』
(宮沢氏が本を出版するきっかけ)
曹長や中佐が出した手記を読み(三田金作氏『東満国境要塞・勝鬨の激闘』河野貞夫参謀『軍使として勝鬨陣地停戦の重責を果たす』)激戦の様相、特に終戦時の武装解除時洞窟陣地で置き去りにした傷病兵のことをソ連の野戦病院に送ったと書かれているのを読み、美談にするのではなく戦争の悲惨さと事実を伝えたかったと綴っている。
(著書との出会い)
新聞に掲載されていた自費出版の初版『ソ満国境守備隊 最後の初年兵 砲兵隊勝鬨に在りて』を宮内氏ご本人に注文する。送られてきた本と参考資料として『その時代と背景にあったものは』とする概略資料のプリントが同封されていた。 当時渡満に勤めるまでに至る理由、日本の国策、ハルビンの様子、満鉄、そして関東軍などの時代背景が書かれている。
初版を読んで感想をお送りしたら読書会があることを知り参加。("『最後の初年兵』")
宮内省一氏は山本幡男氏と同じく満鉄に勤めていて現地招集で兵士となっている。
『ラーゲリより愛を込めて』の映像シーンの街の様子は宮内氏も見ていた街なのかなと感慨深く観ることができた。そのように思わなければ映画のワンシーンとしてしか見えなかったかもしれない。『映像の世紀』のようなドキュメンタリー番組を観ている時もこの時代の映像を思わず目で探して追ってしまう。同封されたこのプリントを読むたび著書に入ってないことを勿体無いと思う。
(街の様子についてプリントより抜粋)
“モスクワがモデルになって都市建設が行われたというだけに、中央寺院をはじめ、キタイスカヤの石畳と並んで聳(そび)えるザボール(寺院)のとんがり帽子のような建造物は、ヨーロッパ風のおもむきが濃い都市である。このヨーロッパ風に完成された美しいハルピンも、第一次世界大戦後のロシア革命によって、いったん中国政府の掌握下に入ったが、その後1931年9月柳条溝事件(柳条湖事件・満州事変)によって、満州全土の占領を企んでいた日本の関東軍の侵略はハルピンの運命を大きく変えたのである。私達の知っていたハルピンは、当時行政上の呼称を浜江省の省都としていたが、今日では黒竜江省の省都となっている。”
“今風に言うとマインドコントロールされていた私達は、他民族の痛みにも気がつかず、海外生活を楽しんでもいた。夏は松花江(スンガリー)を中国人の漕ぐボートで、料金を一方的に値切って太陽島に渡り、スタイルのいいロシア人のアベックにすれ違い、冬は凍りついた松花江の氷に穴を空けて、ロシア人のキリスト教信者達が、氷点下に冷水に飛び込む、復活祭の珍しい光景なども目にしていたものであった。此処ハルピンでは、七三一部隊が残虐行為を続けていたのであるが、当時私達は知ることができなかったのである。”
あとからこの頃の背景を知ってショックを受けられたのだろうと伺える。召集され国境で激戦を潜り抜けシベリアへ連行されやっと生きて復員してきたあとに知った時どんな気持ちだっただろう。日本は朝鮮を事実上植民地にしていた。朝鮮の人々の生活状況はそのために極度に悪化していたという。一般のロシア人も住んでいたというのは意外だった。ところで読み方は「ハルビン」「ハルピン」どちらでもいいらしい。
当時日本の侵略行為に不信を抱く人はごく少数に限られていたという。
"「加害の歴史」は終わっていない――福島・常磐炭田に刻まれた朝鮮人強制労働の記録 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)"
植民地政策によって農村経済が疲弊しそこから強制徴用の流れとなる。関東大震災の虐殺などは“人”扱いをせず酷い仕打ちをしている自覚があるからこそ報復されるのではという不安に駆られたからなのではないだろうか。
山本氏と宮内氏、満鉄かそれともどこかの収容所で出会っていなかったのだろうか。すれ違うこともなかっただろうか。
◼️宮内省一氏 1926年生まれ。
1941年(昭和16年)技術員養成所で2年間教育を受け乙種工業学校卒(旧制)の学力を得るため渡満。1943年(17歳)奉天鉄道工場勤務。1945年(昭和20年・19歳)満鉄(奉天)に勤めていた頃、徴兵制度が一年繰り上げられ現役徴集により軍隊にとられている。もし日本国内であれば終戦の年の7月に関東軍の国境守備隊に入隊することはなかったらしい。
*これは1945年7月の「根こそぎ動員」と思われる。
◼️山本幡男氏 1908年生まれ。
1936年(昭和11年)
満洲にわたり、南満洲鉄道内の調査機関である大連(関東州)の満鉄調査部に入社。
1944年(昭和19年)
現地招集の召集令状で二等兵となる。
1945年(昭和20年)
ハルビン特務機関に配属される。
敗戦後スヴェルドロフスク収容所に収監される。
満鉄調査部での北方調査やハルビン特務機関でソ連の新聞や雑誌の翻訳を行っていたが、これらの活動がソ連に対するスパイ行為と見なされ、戦犯としてソ連の国内法(刑法第58条第6項)により重労働20年の刑を下され、ソ連国内の監獄や収容所をたらい回しにされた末、1949年(昭和24年)にハバロフスク市内の強制労働収容所に移される。1953年(昭和28年)5月収容所内の病院に入院。1954年2月咽頭癌が診断され8月45歳で亡くなる。
◼️柳瀬嵩氏
1941年(昭和16年)
徴兵のため大日本帝国陸軍へ入営。支那事変に出征。上海でマラリアに罹り終戦翌年1946年(昭和21年)に復員。
兵役中、柳瀬嵩氏の馬の世話のシーンがある。宮内氏は少年時代農耕用の馬に乗っていた経験があるということで馬の運動をさせる乗馬の係になりその間だけは比較的楽をさせてもらったと書いている。場所は違えどこのシーンからどんな様子だったのか垣間見ることができた気がした。
◼️宮内省一氏の著書 まとめ
『ソ満国境守備隊 最後の初年兵 砲兵隊勝鬨に在りて』(1994年7月出版)
宮内氏は1945年7月1日に入隊。配属されたのは第一地区国境守備隊。初年兵教育が修了しないうちに19歳で実践に突入する。
本書は、8月9日未明ソ連軍が国境を突破し満州侵略作戦を開始した時点から始まり、8月26日までの勝鬨戦闘記録。そこから9月下旬まで捕虜として1週間野宿しながら歩かされシベリアへ送られる為に貨車に乗せられるまでの内容。
この本を出すきっかけとなった洞窟陣地で置き去りにした傷病兵のこと、この事実を公開したい一心で書かれたであろうそのシーンは凄まじい。
『続・最後の初年兵 シベリア抑留記』(1996年7月出版)
シベリアへの護送列車の様子から収容所3年間の抑留生活を経て帰国するまでの内容。
ハバロスクを過ぎコムソモリスクで貨車を降り、ホルモリン地区(タイガ・針葉樹林帯)の収容所など四ヶ所を移転している。
日本人捕虜たちは軍隊式のまま上官からのビンタがあり勝手に自分たち日本人だけでノルマまで作っていたという。
収容所によって違いがあったらしく収容所におけるリンチ事件では、「暁に祈る」事件があったことを宮内氏は復員後知ったそう。
宮内氏の収容所でも残酷な体罰がソ連側からではなく日本軍の名において加えられ1名亡くなっている。
旧軍隊のしきたりは、戦争は終わって軍隊は解体し階級もなくなったという意識が出て民主主義に変化し命令口調で部下を呼び捨てにする行為がなくなっていく。
ソ連では喧嘩で暴力を振るうと法で裁かれ罰せられるため、腹が立っても捕虜に手を挙げることはなかったのだそうだ。
「サムライ ハラキリ」
ソ連の警戒兵や作業監督が言葉では通じないと判断すると興奮しながら人差し指を向けて上下に動かし怒鳴った。ソ連ではもっとも軽蔑に値する行為として日本人に対する最大の軽蔑語として用いられたのが「サムライ ハラキリ」。日本語を知らないソ連人でもこの言葉だけは知っていたという。
極寒の冬のトイレの描写は初めてこのシーンを知った人はここで一旦読むのを止めてしまうかもしれない。ただここでも驚いたのはドアの無い穴の空いた排泄口が並んだ場所でロシア兵が隣にしゃがんで用を足していたという事。捕虜の日本人から襲われる心配もしていなかったようだ。
軽い病人を収容する病室があり、KT37.5°以上の熱があると入院させられ1日5食(3食の他間食)出される。身体検査があり、栄養失調と判定されると弱兵専用の収容所に移送される。
しらみ対策が徹底していて全ての衣料を2週間に1度滅菌して上下の肌着を交換しやがてしらみの被害が無くなっていったという。
それから、支給される防寒具は捕虜全員に支給されたことも意外に思えた。その防寒の性能がとても良かったと。
シベリア抑留から引き上げて日本に帰国した時の厚生省役人からの挨拶。
「皆さんは故郷に帰って職もなく生活に苦労するかもしれない。そんな場合でも非行に走らず、頑張って欲しい。」
「いくら困っても、日本には、野山に蛙や蛇が生息しているので、これらを食べて飢えを忍んで下さい。」
“この言葉が復員に際しての政府を代表する公人としての第一番の言葉だったので、些か唖然とした。シベリアでの労苦に報いる言葉としては、あまりにも不愉快な言辞であった。”
『釜石物語(上)』
『シベリア抑留記』と共に同封されていた。こちらは宮内氏の自伝となっている。シベリアからの復員後の様子も載っていた。
祖父の代に千葉の銚子から釜石の地に居を構える。
釜石は彼が小学に上がる年の1933年(昭和8年3月3日)「昭和三陸地震」を受け大津波で甚大な被害を受けていた。
11歳の時父の病死により家族離散して秋田へ。母親が国策に添って満州に渡っている。そして満鉄へ入社したのが16歳。父親を早く亡くし親戚の家に預けられていた為中学以上の進学は望めず、満鉄に採用されれば2年間満鉄の技術員養成所で乙種工業学校卒程度の学力を得られるために入社する。卒業して奉天の鉄道工場に赴任。その奉天から軍隊にとられた。
釜石は宮内氏にとっての故郷。2011年3月11日の東日本大震災。世界最大級と謳われた防波堤を巨大津波が倒壊させた。当時はおそらく宮内氏は仙台にお住まいで釜石の津波には直接遭われておられないと思われるけれど、この被害にどんなに気落ちされただろう。
(シベリア抑留生活からの復員後の話)
復員直後の時の様子や心情が綴られている。
失業対策事業の護岸工事に携わったり、仕事先を探したり大変だったと綴っている。そんな中、伯父の紹介で北秋田郡阿仁合の山奥で炭鉱の営繕作業に従事したことがあったそうだ。
かつて昭和17年のハルピン時代伯父に出会っていて、伯父の働いている場所(ハルピンから北)に案内されている。満人を雇い入れ山の伐採と炭焼きをする会社をやっていた。その時の満人の様子はなりふり構わず働いていて決して楽な生活ではない様子だったと書いている。
そんな伯父との関わりから復員後に宮内氏に声を掛けてくれたらしい。森林伐採し丸太を集積場に運ぶという重労働で危険な作業。請負単価は安くシベリア生活の収容所よりはるかに劣る山小屋だったそう。宮内氏の略歴からこの後釜石製鉄所に入社されている。
◼️航空整備士隊長だった祖父
祖父は韓国にて航空整備士隊長だったらしい。調べてみるとそのような役職の言葉は無く「航空整備兵」だったようだ。いつから韓国に渡ったのか国内から招集されたのかそれとも志願したのかわからない。今更だけどとうに亡くなってる祖父にいろいろ聞き出したいことが沢山でてきてしまう。
(白いツナギを着た黒い顔)
私が5歳のころ祖父母の家に預けられていた頃に見た写真がある。飛行機(戦闘機?)の前で数人並んで上下の白いツナギを着て真ん中に祖父がいる。顔が真っ黒に塗られニカーッと全員笑顔で写っている。
作業していて黒くなったというよりわざと塗ったように見えるその姿が不思議で強く印象に残った。ふざけてみんなで何かの記念に撮ったのか…その写真を無事に持ち帰ってきているというのも今考えると祖父にとって大切な写真だったのだろうと思う。祖父母のそのアルバムには他にもそのような写真を幾つか見た気がするけどその写真の一枚だけ鮮明に覚えている。
「航空整備兵」、単語で調べると「大日本帝国海軍」と出てくる。大日本帝国陸軍ではないのか、関東軍ではなかったのか、日本軍と関東軍もどうやら違うらしい。ちょっと調べてみてもよくわからず調べ方がうまくないのか途方に暮れた。図書館などできちんと資料を調べなけれなならないのだろう。
父は祖父からどんな話を聞いていたのか。電話して答えたその単語の背景には言葉以上の多くの物語が詰まっていたはず。私が父に聞いても祖父から聞いたことを全て話してくれるかどうかもわからない。父から息子へ話せることとその息子である父からさらに娘へ話せることは違ってくるだろう。けれどもゆっくり話を聞きたかった。
柳瀬嵩さんの父親が嵩山にいた頃生まれたので嵩という名前にしたという朝ドラのシーンがあった。祖父が家族と住んでいた場所の一つが「ソサン」。それが「嵩山」ソサンではなくソーサンだと初めてわかった。
幼年兵と共に仕事をしていたらしい。他にハルビン、奉天、ウォン山、と父から電話で聞いた地名をメモしている。メモを取ったこれらの単語しかわからずその時聞いた短い話ししか手掛かりがない。
整備士だったからあちこち飛び回っていたのかもしれないと推測する。
早めに帰国できた幼年兵から知ったのかもしれない。階級バッジを捨てて船にコックとして乗り込み帰ってきたという。他にどんな人と何人で逃げたのだろう。具体的に何月の事だったのだろう。1944年から1945年までということだけど1944年の何月から1945年の何月までだったのか。1ヶ月違うだけでその状況はかなり違ってくる。
幼年兵 wikipedia『陸軍幼年学校 (日本)
大日本帝国陸軍の教育機関』
“1945年(康徳12年)6月、予科卒業が近い6期生は戦況悪化に伴い内地進学が中止となる事を危惧しており、その数名が中隊長や区隊長に無断で関東軍司令部に直訴、これが通り、したがって終戦時生徒は7期生のみが満洲に残っていた。『満洲国陸軍軍官学校』”
祖父はシベリア行きを回避したことを他の人には言いにくかったのではないかと思う。シベリア帰りの人の話を知れば知るほど居た堪れなくなったのではないだろうか。こうした人は祖父だけではないだろう。誰にも言えずにその事実の背景が知られず埋もれてしまうのだろうか。
満蒙開拓団について
*満蒙開拓団(満蒙開拓移民)
1931年(昭和6年)の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満洲、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称。
国策として満蒙開拓団は30数万人(内死者8万人余)、青少年義勇軍として15才〜18才の農家の次男三男を茨城県内原訓練所で3ヶ月訓練し、北満に屯田兵として15万人(内戦死24,200人)送り出していたという。18才以下…若い。
*「南満洲鉄道株式会社」(満鉄)
日露戦争後の1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線がロシアから日本に譲渡され、鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業。
満鉄は政府が一億円を出資し、運転資金の一億円は外資80%、民間公募20%調達によって明治39年(1906年)に創立され、半官半民の国策会社で配当率が6〜8%にのぼっていたという。鉄道線周辺に一般行政権も認められていた。
*この財源についてはこんな事が
"満州を知る10のワード|満州 アヘンでできた“理想郷” - プレミアムA:朝日新聞デジタル"
地元中国人が耕作していた土地を強制的に安く買収しその代金さえ払われないような状況に入植していたという。当地では日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされていた。
日中の友好的な利権ではなかったため治安は不安定でそれを守るため関東軍が設けられた。当初は中国関東州と南満州鉄道の守備を目的とした軍隊だったのが満州制圧のための布石になった。
1919年(大正8年)関東庁制が公布され、関東軍は行政などと二分されて独走していく。
満鉄の社員は 終戦時日本人14万人弱、満州人他は26万人弱で給与は中国人に比べ日本人は4.3〜7.6倍。終戦当時ソ連軍は満州産業の四割を破壊し四割を戦利品として持ち去る。
国境近くに住んでいた満鉄社員や家族は 4万8千人で内地送還まで1万人が死亡したといわれている。
空と時々の記録 🔗 https://lit.link/kisatomii
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