バズって「失うもの」は何かを考える

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今朝方、だらーっとタイムラインを見ていたら「バズを量産する」という一種の商法のような物が流れてきた。なるほど、今の時代ではSNSのバズは一つの産業のような物になっているのかと感じた。もちろん、それ自体を否定する気はない。ただ、どうにもバズるという概念が全知全能のような空気感を漂わせていることに少し違和感を感じている。

元々の考えの派生が違和感の正体

私は昔から、言葉には利便性と危険性があり、両方とも理解していなければ危ないのではないかという考えをうっすらではあるが持っている。私は言語学者ではないのでただの個人の意見に過ぎない。しかし、自分の軸を持っていることで(周りからは出来ていないと思われているかもしれないが)それなりに気をつけていると思っている。本来であれば言葉という概念に対してより多くの複雑性を考慮しなければならないが、残念ながら今の私にはそれが出来るほどの能力を持っていない。ただ、言葉の利便性と危険性と言ったように、いろいろな事物に対して利点と欠点を探ろうとする視点は持ち合わせるようになりつつある。恐らくその視点が、昨今のバズるという概念に対して抱いていた違和感なのだろう。
あまりバズることの欠点の話を見ないことが疑問点であったと思う。

バズって失うものは何かを考える

現時点で明確な答えが出せたわけではない。あくまでも曖昧な考えにとどめておくが、私は2点あると考えている。1つは「情報の新鮮さ」であり、もう1つは「バズったユーザーの失敗の許容」ではないかと考えている。順番に考えてみよう。

情報の新鮮さを失うとは

ここで言う新鮮さとは、だんだんと情報が廃れていくことではない。だんだんと情報が「加工」されていくことの対義だと考えてもらいたい。例えば何かの事実が投稿されたとしよう。それがバズって拡散されていくと、自然と他のユーザーが持ち合わせている情報を付け足していったり、感情との混ぜあわせを行う。そうして他のユーザーが情報に手を加えた、つまり加工されていった情報が、今度は別のユーザーへと流されていくというような循環ができあがる。ここで言っておくが、加工が全て悪いと言いたいわけではない。付け足された情報を吸い上げるべきものもある。また、この事実が、例えば新商品のアイスクリームがでましたのようなそこで終わるような情報などであれば、ユーザーが様々な追加情報を付け加えていくことは必要だろう。しかし、これが一時点での事実であった場合などはどうだろうか。SNSは伝言ゲームの大きな会場みたいであると私の知人が言っていたが、加工が施されていく度にその情報は無批判に受け取っても良いのだろうかと疑問が浮かび上がる。

バズったユーザーが失敗の許容を失うとは

こちらは割と簡単な話になるかもしれない。バズったユーザーには多くの人が集まり、それによってそのユーザに対して目が向けられる。目が向けられるとどうなるか。ユーザーには成功の基準ができあがり、それを維持もしくはそれ以上を求めるようになっていくだろう。もちろん、それは急に起こるものではない。だんだんとそのような空気感ができあがり、徐々に後戻りが出来なくなっていく可能性がある。また、ユーザーが何か失敗を起こせば批判の標的になるか、いつもより少ない反応になり成功の基準を満たせなくなっていき、焦り始める。そしてその失敗を取り戻そうと必死になるという悪循環が起こるのではないだろうか。ちなみに、私は今まで数千、数万いいねをもらったことがなく、大きなバズりを経験したことがないため、最悪これは妄言と思ってもらっても良い。

終わりに

また上手くまとまっていない感じがしたが、本記事ではバズって失うものについて簡単に考えてみた。全てのバズが悪いというわけではない。ただ、バズの利点ばかり見ているのは少々どうなのかという疑問から書かせてもらった。今の時代、バズることはSNSにおける一つの目標点になっているのかもしれない。しかし、本当に大切なのはバズったというゴール地点ではなく、そこに至るまでにどのような試行錯誤や努力をしたのかという土台を積み上げることが必要だと私は思っている。

ポリタフォルス
ポリタフォルス @polif45291.bsky.social

ゲーム(リバース1999など)をプレイしています!日常も呟くよ! メメモリに関するカスタムフィード運用してたりどこかのコミュニティの管理人をしてたり。最近は予約投稿を使ったりもしています。 ※フォロバは必ずしも行なっていません

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