読んだ: あるコンテナ船の物語 資本はいかに世界をめぐるか
世界の見方が変わった本。
変わった、というより「組み換えられた」という方が正しいか。次第にメチャクチャになり始めた昨今の世界情勢ですが、じゃあマトモだったのはいつ? …って考えると、少しづつタガが外れてきたっていう歴史があるんで線引きが難しい。それを一旦はコンテナの誕生時に置いてみよう、っていうのが本書の歴史感覚かな。後半でわかる通り、大英帝国時代から、そして大航海時代から仕掛けは埋められてるワケなんですが。
『コンテナ』は標準化の代名詞と言っていい。標準規格の権化であって、世界中至る所で見る事が…最近は都市部では見ませんね。ちょっと田舎に行くと錆びて朽ち果てたコンテナが道端に佇んでますが。北海道では。まあ都会でコンテナを見かけなくなった理由も、本書を読んだ後では推測しやすくなりました。コンテナという存在が必要になるのは、標準化が必要な世界だからね。都会はもうその地点を過ぎたんだという事だね。コンテナが提供してきた標準化思想の先にある何かを目指してる。いいのか悪いのか、どんな姿になるのか知らないけど、目指してる。案外消え去ったり廃墟化したりもアリかもだけど。
さて。長い前振りしますよ。21世紀になってから、どうも前世紀のSFが発行してた空手形…もとい未来予測が全然効いてないと思うようになって久しい。まあ個人携帯端末は実現したし空飛ぶ車も一応ある。技術パーツはそれなりに揃ってきてるけど、なんか歯車が合ってない気がする…と感じてた。ポピュリズムなんて定番の未来予測だったけど、この20年間に起こってきた政治ショーは70年代から地続きな、あんまり未来感のない奴だった。代わりに生活が恐ろしくシステマチックになった。スマート管理社会の入り口的な。人生、やる事が全て決まってて、遊ぶのすら決まった場所・決まったアトラクションを『消費』するスタイルばかりになって、それも急速に、リーマンショック後あたりからそういう風潮が当然視されてきた感じ。社会って、もっと白黒つかないドロドロの部分がなかったっけ? それもう昭和の錯視風景? 群衆ってもっと制御が効かないモノでさ、理屈も通じなくて暴れると手に負えなくてさ(ってそれは先週からまさに欧州で発生してるので隠れてただけかもしれない)、街に浮浪者とかも普通にいたよね札幌は冬を生き残れないから少なかったんだけど。
何らかの規律をもって『社会』とするなら、その規律からはみ出る概念・物質・動物植物人間がいるのは自然の摂理のはずな訳です。こんなにスマートかつクリーンに管理される都市社会なんて実現可能な訳ないだろ、どっか『田舎』の方に、自分の知らない『貧民街』に、そういう歪みって溜まってんでない? いや溜まってるだろ絶対。物質面のそういう規律取りこぼし…というかこの場合は化学的エントロピー…は炭素の空中放出と温暖化という形でもう明確に表に出てきてる訳で。それ以外の側面の規格外はどこに集積してるんだ、それを知らなきゃ社会の全容を見たとは言えないよな。
…という疑問に答えが出ました。この本で。非常にスッキリと。そして、かなりの確信を持って21世紀世界はそれなりに進歩してきて、相変わらず歪んでて、人生って巨大なガチャで…という光景が見えた。コンテナ船を軸に世界を見ると、ね。
社会の規律の実現手段が『規格化』だとすると、まあ通貨単位とか食品・工業製品・通信・サービスとあらゆるモノが規格準拠を迫られている訳で…運輸の規格はこの100年弱、コンテナを祖法として成り立ってきた。この本で理解しました。大洋を超えてモノを運ぶコンテナ規格が、貨物列車のサイズも縛ってるし、トラックのサイズも、それが通れる道路の幅員もカーブの曲線の数式も道の駅のー駐車場のデザインも縛ってる。コンテナ文明を支える周辺ツール、タワークレーンや吊り上げ用のストラップ、フォークリフト。こういうモノも揃って、海運の徹底合理化が起こり始めたのが1960年代末。本書はこの流れが定着した10年後、70年代後半から始まります。
海運業がコンテナ文明に征服されて朝日の勢いで拡張して行く70年代。『コンテナが乗ればそれでいい』という究極の目的で作られた超巨大筏を、この本では『主人公船』と呼んで、彼女が載せたモノ、入った港のサブストーリーが濃密に掘り起こされる仕組み。正直、そういう構成だからストーリーはないし著者もあえて『主人公の物語』を排除しているのが特徴で、それでも明るい未来の幼年時代・もう終わりかもしれない老年時代がエピソードから自然に滲んでくるのは、何というか立派な自然主義小説になってます。長塚節の『土』です。
淡々と、赤裸々に語られる、主人公船が翻弄されていくこの世界の姿(大西洋の範囲内ですが)。この語りの中で、コンテナの力が世界をねじ曲げて行く過程が一瞬一瞬のスナップ写真のように垣間見えて来る。ああいや、垣間見えて来るのは著者がその規格や法制度や歴史的決断にある背景をキチンと論じてくれるからで、船自身のドラマとは違ってそこは自然に滲み出て来る訳じゃありません。背景がわかればわかるほど、コンテナを利用する法律(から逃げるため)の枠組みは大航海時代から整っていたのが見えて来る。運ぶモノは幾らでもある。往年の奴隷産業の残滓を再利用して、物資も人員も港湾も、全てがコンテナ教の下に統合されて行く。こうして、『グローバル化』というラベルで素顔を上手に隠した『プランテーション・バージョン2』が整って行く。文字通り、グローバル規模で。
この理解に至るには最終章まで読み切らないとダメなんですけど、途中の段階で既に読む際の緊張感が半端ない感じになります。主人公船は初期段階で居住コンテナを積み上げて溶接し、巨大な海上居住地となりますが、『社会』と『蘇った奴隷制の魔境』を行き来する存在ですから、載せる人々もそういう社会のエッジに立つ者。兵士や一時的な労働者や、刑務所に入りきらなかった囚人…とっても、非常に、咽せる世界。それが、主人公船の場合は様々な歴史の事情から、『社会』のすぐそば(川とか港とか)で、『魔境』の人々を見せないがために敢えて高額なレンタル料を払って利用される事が非常に多い。その、接近させまい接近させまい、とカネのチカラで不都合を隠そうとする人間たちの黒さが、淡々とした中にサスペンスのように浮かび上がって来る。
最後で著者と主人公船は、地球のドン底みたいな場所を見せてくれますが、お腹いっぱいで思わず食べ残しそうになるような重たさでした。
ここで最初の問いに戻って来ると。グローバル化した社会の真実とは、ヨーロッパ近世の奴隷時代が、コンテナ海運の機構を得て世界の先進国中に広がった、システム的な意味での地球規模の貴族制国家だと言うことが見えた。あまりに巨大で、その光景を見誤ってた。
いや著者はそこまで言ってはいないけど。フランス革命時のパリ市民がほとんど黒人奴隷を見る事がなかったのと同じ理由(ちなみに奴隷はハイチとかの海外領に運ばれてプランテーション農業に従事してた訳です)で、世界規模の貴族制社会は実感できるようになる次第。それを踏まえて今年のイラン戦争を眺め直すと、光景がちょっと変わって来る。大航海時代は奴隷と砂糖を運んでいたけれど、今は主に石油(はコンテナには入らないが)と石油製品を運んでる。もはやいい/悪いじゃなくて、我々全員がここから逃げ出せる先はない。20世紀前半とは違って、もう今は自由でいられる国はないんだから。
このグローバル社会にメスを入れる場所はない、というのが率直な想い。科学や近代法が産まれるより前から駆動してる、強烈なレジリエンスとグレーさを誇る、法的かつ組織的かつ人的な仕組みは、現代文明で解体できるもんじゃない…南無。
スクスト垢だったけど、最近二次創作アカウントに変貌しました。 2007年以降に書いた小説は全部PIXIVにありますよ(https://www.pixiv.net/users/986169)。基本的にオリジナルの世界の考察の物語。
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