「神仏習合」の「日出国」に生まれて感謝しかない件②仏のチカラ
まずはご報告。
連日暑い日が続いてますが、昨日の夕刻は東からの風が爽やかだったので、散歩に出かけ、まあ気のせいだけどちょっと面白い写真が撮れました。
最初は、「人の顔と恐竜?ヘビ?が写ってる?」と思ったのですが、よく見ていると「鹿じゃね?」という気がしてきました。東の方角だし鹿がいるということは、先日参拝した香取神宮の経津主命かな?
経津主命ということは、その上にいるのは武甕槌神かな?
「こっちもお参りに来いよー」と言っているのかな?(かなりこじつけ)
信じるか信じないかはあなた次第でーす( ̄▽ ̄)
今回も「日本創生記」の続きです。
作者の田中英道さん(1942.2.20~2025.4.30)の専門は美術史で、ミケランジェロが描いたシスティーナ大聖堂の天井画「最後の審判」の、500年に一度の修復にプロジェクトリーダーとして参加されたりしたそうです。
様々な芸術、美術を目にしてきた先生が、歴史の謎と向き合う時、新しい解釈の源になるのが、「目の記憶」遺跡、古物、芸術作品にある共通点や既視感だそうです。
古墳時代のこの人物埴輪、これはどうみてもユダヤ人では?とおっしゃっています。この埴輪が見つかったのは千葉県芝山町、高天原があったのではないかと推察される関東です。
ユダヤの人々はまず高天原にやってきたのでしょうか。そして古代のユートピアに定住し、溶け込んでいった?
建築、灌漑、紙の製作などの進んだ技術で、国の発展に寄与したといいます。
秦氏ユダヤ人説(戦後はあまり受け入れられなかった、明治時代の説)を提唱し、「京都はユダヤ人が作った」とまでおっしゃっています。
そんな高天原も、次第に大和の国、律令国家になっていきます。3、4世紀頃、東北の寒冷化が進み、人口は西に移動し始め、西に都が出来ます。
そして飛鳥時代、日本人の思想史上の大きな転換点として、仏教の受容が挙げられるそうです。
千葉県の成田山新勝寺、本堂の裏側には、大日如来像の隣に聖徳太子の像が置かれています。
飛鳥時代、蘇我氏とともに日本に仏教をもたらしました。神道系の物部氏との間に、争いもあったのですが、(物部氏の拠点は香取神宮)仏教推進派が勝利しました。
しかし、これで神道が廃れたわけではなく、また一層性質の高いものになりました。神社の中に仏堂が作られ、神仏習合はより充実したものとなりました。
成田山の中にある出世稲荷神社。しかしご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)ではなく、インドの女神ダーキニー様。稲荷神社と習合しました。
古代の世界には、このような例はなかったといいます。二つの宗教が共存することはなく、一方が台頭すれば他方は滅ぶ、というのが常だったようです。
聖徳太子はなぜ仏教を取り入れたのでしょうか。
著者は「日本人のために、神道の世界に仏教を導入することを選択した」といいます。
ブッタが「悟り」を開いた目的は、世界に溢れる「老、病、苦」を解決に導くためだと言われています。
高天原の時代から続く太陽、山岳を中心とする自然信仰の強さ、それらは「アルカイムズ」(素朴形式)と呼ばれる単純性、装飾性をもった造形が中心でした。文字のない時代の形象表現だったのです。
そこには日本人の持っている洗練性、複雑さ、深さが十分に表現されていたわけではありませんでした。
聖徳太子は、共同宗教の神道を基礎に、人間の個人の領域の思想を取り入れたのです。人が「悟り」というものによって、他人には分からぬ個人の苦しみを癒す方法を得られるよう道を開いたのです。
そこからの世界観が、深い芸術の段階に達することになっていったそうです。
「令和」という元号を生み出した「万葉集」には、仏教のことは殆ど表現されていません。生活に密着した自然、異性への愛の歌が多く、神道の世界観です。
仏教の個人思想が入ることにより、人間の深い部分、不可解な自己を見出し、それをいかに認識できるか、という問題が生じてきたそうです。
その問いに対する答えを、仏像彫刻などによって表現するようになったといいます。著者は例として、名高い「阿修羅像」を挙げています。
「あの少年の表現は、生半可ではありません」と仰っています。
まったくもってその通りだと思います。あの緊張感と、どことなく憂いを含んだ表情、人間の謎の集大成のような気がします。全人類の苦悩と幸福と問いと答えが、あの表情の中に詰まっている気がして、時空を超えて私たちに何かを訴えかけてきます。
仏のチカラとは、人のココロを丸裸にしてしまう、そういうものなのでしょうか。
♀️仕事帰りに孤独にボヤきたくて始めてみました(* ̄∇ ̄*) カメハメハ大王のお妃のように 夕日とともに寝てしまう生活をおくってみたい(´・ω・)
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