調べていたroots

その話は半信半疑で頭の隅に置いていたけどずっと気にはなっていた。何年か経ってそういえばと思い出しインターネットで検索したら名字の由来と思われる史実と思われる記述を見つける。

いろいろわかってきたのでまとめて概略の記録メモとして。

【敬覚寺】

敬覚寺のHPより転載

『敬覚寺と両川の歴史』より
http://www.kyokakuji.jp/ryokawa.html

“1532~54年(天文年間)から1648~51年(慶安年間)

伝承によれば両川の各村の開発は、この1532~54年(天文年間)から1648~51年(慶安年間)と云われている。


1573~92年(天正年間)
北上村から移住した北上勘之丞が、小阿賀野川の附州を開発したとされる。”

敬覚寺(きょうかくじ)について

“八木次郎左衛門は、法名釈法西と号し直弟子となり、寺地(平島)に一字を建立し、敬覚寺の開基となる。その後、十世覚法の代、永禄九年(1566)、新潟市酒屋町(金津保左加也県)の現在地に移転した。”

酒屋町という地名は元は「金津保左加也県」のようだ。「保左加也」→「酒屋」

“1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い中蒲原郡酒屋村が村制施行し、酒屋村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 中蒲原郡割野村、嘉瀬村、和舞村と合併し、両川村となり消滅。大字酒屋となる。”

“1902年(明治34年)
両川の地名は、明治34年の両川村成立時に付けられた新しい呼称で、当時の公文書(1901)には「フタカハ」と振り仮名がつけられていた。”

「フタカハ」→「両川」

酒屋村(近世) によると、

“ 江戸期~明治22年の村名。蒲原郡のうち。東坂(酒)屋村とも称した。小阿賀野川の附州を天文年間北上村(現新津市)から移住した北上勘之丞が開発したという(皇国地誌)。枝郷に花牧村があった。はじめ新発田【しばた】藩領,慶長15年沢海【そうみ】藩領,貞享4年幕府領,宝永2年(一説に宝永4年)旗本小浜氏知行,天保14年幕府領,慶応元年からは会津藩領。村高は,「元禄郷帳」に「古ハ東坂屋村」と肩書きされ343石余,「天保郷帳」360石余。信濃川と小阿賀野川の合流点に位置し,古くから阿賀野川舟運の船着き場となっており,在郷町として発展した。宝暦年間には六斎市も立った。慶応3年会津藩の陣屋が福岡村(現水原町)から移されている。元禄3年の家数約40。庄屋は開発者北上家が世襲。“

“明治6年北条家北上家の改称)宅を借用,早通校第一分校設置(明治17年酒屋校と改称)。同12年中蒲原郡に所属。同22年市制町村制施行による酒屋村となる。“

謎: 「北条」が出てきた。北条と北上がこれを読んで繋がった。北上家を北条家に改称というのは、北条に姓を戻した北上家がいるのだろうか。聞いた話の北上家の本家はお手伝いさんが何人もいて三味線を教える人もいたという。この本家が北上勘之丞の子孫なのかもしれずやはり北上勘之丞と北上家と北条家はつながりがありそうに思える。

【北上勘之丞】

開発したとされるその北上勘之丞。


「勘之丞」という名について、大河ドラマ『光る君へ』を観て単なる名前じゃなく役職名だと知った。

“時代劇などで出て来る「雪之丞」や「新之丞」などの「~之丞」という名前。 律令制度の四等官、かみ・すけ・じょう・さかんの「じょう」ですね。 刑部省、大蔵省などの第3番目の役職に丞と言う文字を用いていました。 元々は役職名だったものを通称として使うようになったのです。 今は普通に名前として使われる大介、大輔、大助、大亮もそうです。 (「すけ」は第二番目の役職で、字のバリエーションが多いのは役所によって当てる字が異なったから。 いずれも助ける(長官を補佐する)と言う意味を持っていますね)“

via "〜之丞とはどういう意味ですか武士とか商人とかって言うのは分かりますか生まれは1500年代です。 - 時代劇などで出て来る「雪之丞」… - Yahoo!知恵袋"

◼️寄贈された家系図

冒頭の半信半疑の話とは、その土地(現在の酒屋町)に数十件(何年か前に名字を調べたら20件くらいだった)の名字「北上」の本家にあった家系図のことでその筆頭が「北条時政」だという話。その家系図はおそらく学校から紹介され1920年から1930年までの間に資料として博物館(その村の郷土資料館だろうか)に寄贈したらしい。

この北上勘之丞がこの村の北上家の先祖だとすれば、村との重要な交渉などで身分証として家系図を持っていたのかもしれない。

酒屋町については上記の敬覚寺のHPの他に、両川小学校のHPに郷土資料館にて生徒たちが調べたと思われる手書きされた資料のプリントが載っていて祭りや成り立ち地形など参考になった。最近リンク先を訪れたらHPはリニューアルされそのページは消えていた。

インターネットはとても便利だけどずっと残ってるとは限らないのだなと実感した。スクショなどで保存しておけばよかったと後悔する。

この酒屋町(当時は村)の北上家と北上勘之丞と北条時政の繋がりについては多分どこにも書かれていない。資料としてはどこかに言及があるかもしれないけど一般的に知りたい人はたぶんいないし需要がない。私は個人的な興味で歴史の素人として検索し推察しているだけ。もし興味のある人は同じく個人的な繋がりがあるかその関係者か(関係者全員が興味を持つわけでもない)その家系図の話を知っている人(聞いてもほんとかなと思う人が多いのでは)又は研究者や歴史マニアくらいかなと思う。もし本当だと判明してもそれがどうしたという話でもある。

また、北条時政という人自体注目されない。あまり観てないけどかつての大河ドラマでは北条家そのものがイヤな感じの人として描かれ不人気な印象がある。

2022年放送された『鎌倉殿の13人』でも時政はコミカルだけどさほど魅力的ではない描かれ方だった。北条政子はこれまでと比べれば随分好感度が高い描かれかただったのではないだろうか。

大河ドラマによって注目が集まると新しい歴史的資料が発見されるらしい。それで最近検索したら(しょっちゅう調べてるわけでもない)それまで知らなかった情報を得ることができたのかもしれない。

織田信長や徳川家康の子孫をテレビで見たとき、その織田信長や徳川家康ってこんな顔でこんな声でこんな感じなのかなと想像してしまう。直系であれば結構似ているのではないかと。肉体先祖からくるものは軽視できないものがあると思う。肉体というよりその仕草や雰囲気など生まれてから形成されるというよりも花の種のように生まれる前からすでに備わったものが本人の意思とは関係なく開いていくものがあると思う。思考の仕方まで遺伝していくものがあるのではないか。

そう考えると面白いなと思う。

◼️勘之丞の出身地「北上村」
 
数年前に「北上村」について出てきた検索結果はひとつだけで、伊豆地域だった。「きたうえ」と読む。ちなみに酒屋町の北上家は「きたかみ」。

【北上村】
伊豆地域
“北上村(きたうえむら)は静岡県の東部、君沢郡・田方郡に属していた村である。現在の三島市北部にあたる。” wikipedia

伊豆地域の北上村は東海道の上方に位置する意味から付けられた地域名だった。

最近ヒットしたのが新潟市の新津市の北上村(きたかみむら。出典は皇国地誌

“小阿賀野川の附州を天文年間北上村(現新津市)から移住した北上勘之丞が開発したという(皇国地誌)。”

“明治6年北条家(北上家の改称)宅を借用,早通校第一分校設置(明治17年酒屋校と改称)。”

"解説ページ"

謎: 上記の敬覚寺には天正年間(1573~92年)とあるが皇国地誌の方は天文年間(1532~54年)となっている。

“もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった北上興野の区域の一部で、地名の由来は開発者の加藤家が小田原北条氏の出身で、北条の「条」を「上」に替えて村名にしたという説がある[4]。
1908年(明治41年) : 北上に改称する”
北上 (新潟市)新潟市秋葉区の町wikipedia

北上興野(きたかみごや)の地図

北条の「条」を「上」に替えて地名としたと書かれてる。検地は1677年(延宝5年)北条との繋がりがここにも出てきた。

謎: 小田原北条氏出身の加藤家!加藤の姓にしたのは1590年豊臣秀吉の小田原征伐以来変更したのだろうか。「加藤」という姓は加賀の藤原氏由来と関係があるのかもしれない。

◼️小田原北条と鎌倉北条のつながり

“北条氏綱は鎌倉北条氏と血縁関係はありませんでしたが、その縁者とされる横井氏と婚姻関係を結んだ上で「北条」の姓を名乗るようになります。
それまで氏綱は父・伊勢宗瑞と同じく「伊勢」を名乗っており、姓を変えるというのは決して軽い決断ではなかったはずです。

にもかかわらず、あえてその姓を捨ててまで「北条」を名乗った背景には、当時の関東で「北条」という姓が持つブランドの大きさがありました。

すでに滅んでいた名門の縁者を正室として迎えてでも欲しかった「北条」。”

"鎌倉北条氏と小田原北条氏の違いとは?:同じ名字に隠された知られざる正体に迫る | 沼探"

北上勘之丞と小田原北条氏出身の加藤家の繋がりがわからないけれど、同じ北上村に住んでいて新発田藩だったのではないかと思う。北上勘之丞は小田原征伐の前に北上の姓のまま酒屋村へ行っておりそこで開発に携わりそのままその村に住んだと考えられる。

小田原北条氏と執権北条氏の関係についてはこちらにも

小田原北条氏のルーツと、執権北条氏の関係(森岡浩) - エキスパート - Yahoo!ニュース より

“執権北条氏のルーツ
鎌倉幕府執権の北条氏は桓武平氏の出。初代執権時政の祖父時家が伊豆介となって伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)に住み、北条氏を称したのが祖である。
ただし、時家以前の系図については諸説あるが、いずれにしても時家が北条氏の事実上の初代とみられる。北条氏は小規模領主であったが、当時の交通の要所であった北条地区を領していたため、早くから京とのつながりを持っていたとされる。
時政は、娘の政子が伊豆に配流中の源頼朝に嫁いだことから、頼朝の挙兵を助けて鎌倉幕府の創業に功を挙げ、鎌倉時代は子孫が執権を世襲して政治を動かした。

小田原北条氏の出自
一方、戦国大名である小田原北条氏は、執権北条氏とは系譜的なつながりはない。
その祖早雲はかつては出自不詳といわれたが、現在では室町幕府の有力御家人だった伊勢氏の分家で備中伊勢氏の一族とみられている。伊勢氏は桓武平氏の出で、北条氏も桓武平氏である(これは執権北条氏と同じ)。

秀吉の小田原攻めに立ちはだかったのは4代目の氏政。因みにこちらもかつては「小田原征伐」という言葉が使われたが、最近では使用されない。
氏政は小田原城に籠城したものの、秀吉の大軍の前に衆寡敵せず開城。自らは自刃し、5代目氏直は高野山に追放されたのち、翌年死去して嫡流は滅亡した。
なお、3代目氏康の四男氏規(氏政の弟)は幼少時今川家の人質として駿府におり、同じく人質だった徳川家康と面識があったことから、秀吉の小田原攻めの際には家康の勧めに従って開城、子孫は河内狭山藩主となって続いている。”

後北条氏 wikipediaより

“ 執権北条氏との血統的なつながりは、以下に示す通りである。
北条時政―時子(足利義兼室)―足利義氏―吉良長氏―今川国氏……今川泰範―今川範政……今川氏親―瑞渓院(北条氏康室)―北条氏政 “

◇◇◇

北上勘之丞と北条家、北条時政との関係。酒屋町の北上家の家系図の信憑性、経緯はいかに。

本当は新潟市江南区郷土資料館や新潟市歴史博物館など実際の資料を探せばいいのだろうけれど、インターネットから探し出した情報を集めて導き出してきた正解はいつかわかるだろうか。


新潟市文書館"所蔵資料の紹介

学術的な家系図は「国史大辞典」の系図部分や、鎌倉幕府・北条氏研究書の付録系図(吉川弘文館・講談社学術文庫などの鎌倉通史本)をあたると、より信頼性の高い図が見つかるらしい。

北上家本家に聞けばわかるのかわからないのか。直接コンタクトを取れそうな人は8年前に突然病で亡くなっている。

いずれインターネットにもっと様々な資料にアクセスすることができるかもしれないし却って現在閲覧できてもアクセスできなくなったり削除されてしまうことも考えられる。インターネットの世界はまるで生物のように不安定で未来の見えない世界に思える昨今だから。

そのうちいつかわかることがあるのかな。

最後に、最近知った皇国地誌についてメモ

皇国地誌

皇国地誌(こうこくちし)は、明治初期の未完に終わった官撰地誌編纂事業。刊行されなかったが、残存する原稿や控えは「皇国地誌残稿」「郡村誌」(ぐんそんし)と呼ばれ、貴重な史料となっている。

明治新政府は国土把握には史誌地誌編纂が必要と考え、奈良時代の風土記に倣った官撰地誌編纂を計画し太政官正院地誌課を新設した。さらに各府県へ所属郡内すべての村について、詳細な調査報告書の提出を命じた。編纂には内務省地理寮(国土地理院の前身)があてられた[1]。
1872年(明治5年)頃から始められたが難航、紆余曲折ののち1884年(明治17年)に打ち切られ、大日本国誌編纂事業に引き継がれたが、これも安房国1冊の刊行に留まっている[2]。残稿は東京帝国大学に所蔵されていたが、関東大震災により大半が焼失してしまった。

史料編纂掛(東京大学史料編纂所の前身)に貸し出し中で被災を免れた残稿、各府県が作成した控えや草稿が一部で復刻、出版されている。
残存稿本

府県の控え
新潟県 『大日本国誌 越後国(全6巻)』ゆまに書房(1988)[6](編纂未完了)wikipedia

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