「心」が先か、「体」が先か。
まあいっか、という言葉が好きで、仕事やらプライベートやらでいろいろと追い込まれたりするとなるべくその言葉を言うようにしている。
声には出せないけども。人に聞こえるようには言えないけども。無責任にしか聞こえないから。
まあいっかと、ほぼ呪文のように。念仏的に唱える。
そうすると、結構楽になる。なんとなく頭の中の焦りがなくなっていく。今日は「悩むことや悩んでいる時間そのものが無駄だよね」という心境になった。
ここしばらくは寝る前に毎日、養老孟司さんの『なるようになる。僕はこんなふうに生きてきた』を読んでいる。
先日の「脳化」の話に引き続き、また気になるワードがあったのでメモ。
平安末期から天災が起き、飢饉となり、さらに源平の争乱が起き、政治的には豚めて不安定な時代だったことが大きい。そこで、平安時代に主流だった花鳥風月を愛でる考え方が変わっていき、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」や『平家物語』の諸行無常の思いが広がる。そうした中で鎌倉仏教も生まれた。心身を語るとき、道元が「身心」と心よりも身を上にしたのはその象徴でしょうね。
養老孟司『なるようになる。僕はこんなふうに生きてきた』
「身心脱落」。「身」が先で、「心」が後。
でも時代が変われば、
これに対して、心身と、心が上になるのが江戸時代です。江戸の鎖国というのはこうした目で見ると情報統制社会で、意識で社会を統制する。そして、現代は、まさに意識が中心の時代で、脳が生み出す人工物が世界にあふれ、自然や身体など人間がつくったものではない自然は排除されている。
養老孟司『なるようになる。僕はこんなふうに生きてきた』
意識が前に出てくる。
「心」が先か、「体」が先か。
もっとパーソナルに、特にメンタルやられているときは、どうしたらいいのか。
やはりベースとして休むこと、ぼーっとすることから始めて、「まあいいか」と心の中を切り替え、認識を変えていく。実際、寝てなくてやばいときはまあいいかという言葉すら思いつかない。
そう考えると、始まりは心ではなく「体から」ではないか。
「卵が先か鶏が先か」という話ではなく、やはり人間の前提に体があって、よく考えると当たり前のことだけれども心がなにもかもを動かすわけがなく、考えや態度がすべてを決めるわけでもない。
なのにいつの間にか、「心」が先に出てくる。「意思」、または「考え」といった方がいいか。
ここが一番の勘違いではないかと思う。「心が決める」「考えが決める」「心から始まる」と考えを受け入れたとき、行きつく先は「気持ちがすべてだ」という体育会系()なってしまう。
昔勤めていた会社には「やる気を出せ」とか「気持ちが大事だ」とか「自分は体育会系で育った」と二言目には決め台詞のように言う人がいたけれど。わざと部下に意地悪いことをするタイプ。その人は部下だけではなくびっくりするぐらい全方位から嫌われていた。
あれも「心が先」の信者か。
しかし、世の中一定数そういう人が存在していて、そういう考えが受け入れられているのも事実。
自分も、変わらないのかもしれない。
なんとなく「気持ちがすべてを決める」(引き寄せ的な?)を心のどこかで未だに信じている気もする。
いつから「心が先」に出てきてしまったのか。そう考えてふと、こういう本を読んでいたからではないかと思いいたる。
「一度や二度で尻尾を巻いてどうする。目の前に立ちはだかるのがどんなに高い壁のように見えても、まず「かならず越えられる』と思うことだ。壁に手でふれてみたら、それは石ではなく紙でできているかもしれない。紙なら、打ち破ればいい。石でできているなら、どうやってよじ登ってやろうかと考えればいい。それもしないで、「無理だ』といって手をこまねいているのは、ただの怠惰というものだ」
つまり、「ダメだと思ったときが仕事の始まり」である。困難な状況だからこそ、かならず打開する道はあると信じて、ひたすらに進んでいく。そのときに運命の扉が開くのだしそう部下たちにいい聞かせるとともに、自分の心にも深く刻み込んだのです。
稲盛和夫 『心。』
良い本だと思うけれどもね。
こういうと心が奮い立つ気もすれば、反対に純粋に、ただ人をこき使うための理屈にも聞こえる。
メンタルいかれるのもその考え方から来ているのだともいえるのではないか。
ここで気になるのが、どこからが気持ちの問題で、どこまでが環境や体など「心ではない問題」なのかということ。
必要条件か十分条件かという話として考えてみるれば、体が十分条件で心が必要条件といえるかな。
そもそも体が整っていないと心の状態もよく分からなくなってくる。とはいえ、じゃあ体が「どこまで」整っていれば心がまともに働くのかというと、また線引きが難しくなる。
ひとつの仮説として、心がある程度未来に目を向けるようになって、目標に向かって動こうと思える段階になるまでは、体に問題がある(休養が必要)と考えてみる。
例えば、疲れ・怒り・焦り・悲しみといったものが心に浮かんでくるときは、体が「休まなければならない」「ぼーっとしなければならない」というサインを出している状態ではないかなとか。
では、心が回復した基準はどこか。
おそらく「笑うことができたとき」じゃないだろうか。常にジョークが言えるような状態がいいのかもしれない。なぜなら、あまりにもやられていたら笑えないはずだから。
自分一人で何かをやっていて、ふと笑える状態になったときまで休む。それをひとつの目安にするのはどうだろうか。
ちなみに僕は今日、鼻毛が飛び出ていた。(鼻毛カッター買ったよ)
いろいろ試しているので、しばらくひとりごとがおおいです。AT Protocol、ATmosphereに興味を持っています。でも技術的なことはわかりません。ひたすら使う側で生きてきましたので。士業。一人事務所。いろんなツールを使って生きている
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