遺伝、本能からやってくる衝動に振り回されないヒント
子どものころに知りたかったことだなぁと思ったこと(小学高学年なら理解できるかなぁ)。
加害衝動などが人の遺伝や本能からくるものだと知って気持ちが解れた。どこからくるものなのかを知るだけで一旦落ちつける効果があると思う。
予め知っていたなら、必要以上に自分を責めたり落ち込んだり傷つかず回避する方法へとシフトできていたかもしれない。
できなくても、考え方の方向性が違っていただろう。投げやりにならず絶望に陥るのを防ぎ自らを大切に将来に向けて遠回りしなくてもよかったかもしれない。
理不尽なことをされるのがこちら側のせいではないと自覚できたであろうしその結果周囲の人との関係性も変化していたのかもしれない。
感情的になるのは疲れるのに何故かわからないから振り回される。
◼️攻撃的な者への受けとめ方 書籍より
『いじめ脳 脳科学が解き明かす「メカニズム」と「対処法」』 著者:加藤俊徳 脳科学者
“いじめは性格の問題ではなく、ドーパミンを自力生成できない脳の機能不全。他者攻撃以外で快楽を得られずいじめを繰り返し依存する。“
“幼少期から「怒鳴られる」「否定される」「見捨てられる」体験が積み重なると、「他人が自分を見下すかもしれない」「自分は無価値だ」という景色が脳に定着する。これが攻撃行動の引き金になる。“
攻撃する理由は無く(原因は些細なきっかけ)ドーパミンを求める衝動だという。まるで麻薬中毒者みたいなことが平時で起こっていた。否定され続けたりすることの弊害は一生続く可能性がある。たとえ自分で何とかしなければと自覚しても何故そんな衝動が起きているのかわからなければ(またはわかっても)難しそう。ドーパミンを求めていると自覚すると自己を俯瞰して見る練習ができるのかもしれない。家族間であるとこれが連鎖する可能性が大きく根が深い問題だと思う。
“最も実践的な防御策は、攻撃を「悪意」ではなく「相手の脳の状態異常の現れ」として再定義することだ。“
“「この人は私を嫌っているから攻撃してくる」という解釈から、「この人の脳内で怒りの回路が暴走しており、その不快な状態が攻撃として出力されている」という解釈へ移すと、被害者の自己価値への直撃が和らぐ。“
他者を攻撃しなくてもドーパミンを得られる方法を学習すれば攻撃衝動の回路を変化させることができるそうだ。
できれば攻撃の場から物理的・時間的に離れていられればいいのだけど。
『死体でもいいから、そばにいてほしい 悪と寂しさの心理学』著者クォン・イルヨン
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著者クォン・イルヨンは韓国初のプロファイラー、犯罪心理学者。韓国の「プロファイリング」という職業を確立した存在。ソウル地方警察庁で犯罪行動分析官として活躍し、科学捜査が未整備だった時代に独学で犯罪心理分析を確立した。
凶悪犯罪者たちの背景にあるのは圧倒的な孤独感。他者を傷つけることによって自己の存在感を得る。被害者を支配して力、生きがいを得る。犯罪者は特殊な存在ではなく、特殊な状況に置かれた人間。
あまりにも人間離れした犯罪者の心理。孤独感からくる暴走。
◼️クーリエジャパンの記事
・本能に抗おう
“幸福になるには、多くの場合、本能に従うのではなく、むしろ本能に抗う必要がある。世界は絶えず、他人にも自分に対しても「自分を大きく見せよ」と誘惑してくるし、この事実こそが、SNSのビジネスモデル全体を支えている。“
"幸福への近道は、自己肯定感を高めるよりも「自分を小さく考えること」 | 自分を小さくするための「3つの方法」" より
大きく見せようとするのは本能なのだそうだ。そうなってないか自己点検するとともに他者のそうした言動は害がなければ温かい目で見守ろう。
・効率的であろうとする遺伝がもたらす宿命、衝動
“この崩壊は、ホモ・サピエンスが邪悪だから起こったわけではありません。問題は、私たちが効率的であるよう宿命づけられている点にあります。これは遺伝的なものです。私たちは全員が同時に同じことをしなければならないという衝動を抱えています。恐ろしいことです。
この特性を理解すれば、20世紀の歴史、つまり私たちがいかにしてジェノサイドを可能にしたのかが見えてきます。“
"価値観が崩壊すれば種は滅びる─ネアンデルタール人の「自死」が鳴らす警鐘 | 私たちはいまも「他者」を正しく認識できない"
最近SNSで話題になってた「デモ」についてがまさにそれで、デモに行ったというポストに対してデモに行けない理由を返信してくるのは何故なのかと戸惑っている人を見かけた。行かない人にとって行きたいのにあなたは何故デモに行かないのかと問われている気がして行けない理由を言って許してもらおうとしたり(私にはそう見えた。仲間として認めてもらいたいからなのではと)逆に押し付けるなとか思想強めだと言って攻撃に転じるのも「私たちは全員が同時に同じことをしなければならないという衝動」を抱えているからなのだろう。これもね、遺伝なんだそう。特に日本人にとっては様々な人の違いに慣れてないっていうのもあるんだろう。
こんなことが幼少期からずっと大人になるまで続いてる。大人になっても(特にSNSでは)立場の違いによる他者への気遣いや配慮の欠落が珍しくない。
学校、職場、好きなものの集まり、人が集まるところに必ずといっていいほどある異質なものの排除傾向。
違いを排除していくのを続けるとこのネアンデルタール人のように絶滅するのだそう。遺伝的なもので自然に絶滅する運命にあるなら絶滅してもいい気がするけど数少ないであろうフロンティア精神の持ち主が人類を生かす方へ導いてきたのかもしれない。
他者からの評価を得て自己肯定感を高めようとしたり、異質なものを排除しようとするのも本能的なものだった。
「遺伝」や「本能」の成せるものであるならその人だけの問題ではなく人類の生物学的な問題。それは取りも直さず「罪を憎んで人を憎まず」でいられる。
道徳的な意味ではなく生物学的な意味だからこそ納得できる。そう気づかされてからとても気が楽になった。
そしてそこには「赦し」といわれるような道筋ができる。
その人のせいではなく、本能に振り回されたものとして捉えることで相手に対する不必要な感情が抑制される(その罪を許すのではなく相手への憎悪から離れることができる。憎悪はいつまでも自分を苦しめるのだから)。
「本性」という言葉が嫌いだった。その人の本当の姿が暴かれたような表現が。本当は祖先からバトンタッチされてきた遺伝だった。生まれたくて生まれたわけでもない中で最初から抱え込まれたものがあった。キリスト教的に言えばこれが原罪なのでは。仏教的に言えば煩悩かな(宗教的な言い回しや例え話は今まで納得できなかった)。
その人に流れる遺伝や乾いた本能に突き動かされていると捉えることで相手の存在を丸ごと断罪しなくてもいい。
受けとめかたがわかれば必要以上に苦しまなくてもいい。
煩悩、欲、原罪、本能の仕業。
本能に抗うことがいわゆる宗教が目指した目的だったのだとすればさまざまな宗教の修業もなるほどと納得する。
私の場合は「神」という大きいのか個人なのか人ではなく概念なのかよくわからない(私には誤魔化されたものに思える)言葉の概念よりこのような生物学的なアプローチの方がしっくり納得できる。
これらは子どもの頃、各家庭から離れた場所の学校で教えるのが大事だと思う。周囲のクラスメイトや先生、親や大人たちに囲まれた状態をできるだけ正しく理解し考え工夫する方向の羅針盤になりそう。
この国の法律がどう守るのかどう活用するのかを学んでひとりひとり自らの命を大切に自立することができる。
食べていくために必要な知識、制度、それらを子どものうちから知ることによって家庭以外の場所にも生きることができることがわかれば極端な思考に囚われることも少なくなるだろう。
ただ、実際の日本の教育現場は道半ばのままらしい。その仕組み(罠?)について書かれてるのがこちら。
“学校教育の目標の一つは「子どもの成熟を支援する」というものです。もう一つは「子どもを未熟のままにとどめおく」というものです。まったくめざす方向が違う。そして、皆さんも感じていると思いますが、今の日本の学校教育は子どもの成熟には特段の関心がありません。むしろ子どもたちに対しては「ものごとを深く考えるな」「世の中の不正義や不条理について語るな」「いいから黙って『上の人』の言うことを聞け」という無言の圧力を加えている。
"『複雑化の教育論』文庫版のためのあとがき - 内田樹の研究室"“
教育によって知識を得るとはどういうことか、問題に立ち向かうために知っておきたい法律はどんなものか。こどもの頃から知っておきたかったなぁと思う。
空と時々の記録 🔗 https://lit.link/kisatomii
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