何もない日が不安な理由(わけ)を

何もない日が不安な理由(わけ)を

時深(ときみ)

何もない日を受け入れよう。……とする、みたいなお話。


以前友人と、「機会損失への不安」について話をしたことがある。私が何もない日を後悔しがちなのは、”動けないことで、その時拾えるはずだった偶然を取り落としてしまうかもしれない”という不安が強いからなのかもしれない。やりたいことは思い浮かんでいるし、都合がきく時間も有限なのに、「どうして今動けないのか!」というげんなり感も含まれているだろう。
しかし基本的に何においても、「後悔しない」と確実に決め打って行動することはできないと思う。だからこそ、「後悔するならせめて行動してから後悔しよう」という言説が、いつまでも体内に循環している。それが”動けない私”をいつまでも苦しめているのだ。

やりたいことをしている時の風景が、脳裏に思い浮かんでいる。でも現実の私は、今日もベッドで横になっている。このギャップが、苦しい。いつか脳内の風景の中だけで生活する自分になってしまったら、どうしよう。


ふと思ったことがある。幸せは、「視点」で感じ取れるほうが豊かなのではないだろうか。
言うなれば、今見える視野を広げるとか、感じ方を広げられる方が、健全な気がするのだ。
でも今の自分は、余裕がないと言いながら、今できる「解釈」の的に当たる(=今の自分が幸せと認識できる)幸せを、手段として行使してばかりなような気がする。場当たり的で、いわゆるドーパミン的なような。本当は身近にあるきっかけや偶然を拾って、もう少しセロトニン的な幸せをにじませる必要があるのではないか。

最近は日々が”灰色”ながらに、幸せに思うことそのものはあきらめていない……というか、「きっかけを拾おう」とはしてきた と思う。そこに幸福のきっかけがあることや、それが解釈次第であることもわかっているのだ。
でも今は突然「もうむりだよ~」となっている。なんというか、"すこやかのための基礎的なこと"を毎日積み重ねるのがどうしても無理になったような感じだ。
それがなぜなのか、そしてなぜ今なのかは、自分にもわからなかった。


思えば今週は、ちょっと調子が悪かったのかもしれない。
普段からまとめてやりがちな洗濯もいつも以上にできなかったし、人に助けを求めるのが難しかった。日課として最低限続けていた行動記録や、習慣として定着した服薬も度々忘れてしまった。お風呂の億劫さも3倍増しだ。漠然と「何もできない」と感じて、あまりの悔しさに今週だけで10回も泣いてしまった。
何が原因だろうか。気圧、季節の変わり目、うつ、仕事のこと、様々あるだろう。

それでも、今回の不調の中で気づいたこともあった。こういう時は、数時間ほどがーっと外に吐き出せば落ち着いてくることや、それがジャーナリング等の内的な発散では難しいこと。涙が出たときは、ごく身近な人にであれば、そう言っても大丈夫だということ。
その上で、あまり直接話したことがない人に話しに行くのは避ける必要があるだろう。たとえ相手が普段から私を気にかけてくださっていたとしても、私が相手に親近感を覚えていたとしても、急に「涙が出てしまって」と話し出せば、相手は困惑してしまうのではないだろうか。このラインを踏み越えて助けを求めるのは、義に反すると考えている。

最近は、対人関係への信頼感が少しずつ造成されていっているのを感じる。もともとはリセット癖の激しい性分で、上記のように「人に少し頼る」ということもまったく考えられなかった。
そんな昔の自分を思うと、今はかなり大きな成長をしていると思う。
これはひとえに、私の変化を前にしても離れることなく、時間をかけてゆっくりとつながり続けていてくれた、多くの人のおかげだろう。感謝してもしきれない。


お風呂に入っている時、オーディブルで「心はどこへ消えた?」を聞いた。
湯舟を張りながら「今日は何を聞こうか」と調べていたら、偶然見つけた作品だ。
作品の中で「洞窟でキムタクの夢を見る」という話を聞いたとき、はっとした。

 心は変化を好まない。だから、現実が変化してしまったとき、私たちは心を閉ざす。そのためにお決まりの方法に固執する。

(中略)

 吹雪のときには洞窟に避難した方がいい。生き延びるために現実に対して心を閉ざすことが必要なときもある。

 だけど、そのまま洞窟の奥に居続けたら、いずれ餓死してしまうのも事実だ。現実が変わっているのだから、どこかで心も変わらないといけない。キムタクの夢を見続けていても、SMAPは帰ってこないのだ。洞窟の入り口付近をウロチョロしながら、新しい地図を見つける必要がある。

 変化とは劇薬のようなものなのだ。一気飲みすると体を壊すけど、完全に拒絶しても体は悪くなる一方だ。だから、チビチビ舐めるのが良い。現実が変化するのは一瞬だけど、心の変化はゆっくり起こるのが自然だ。

東畑開人著「心はどこへ消えた?」 , 文春文庫 , 2025 , 48p

これは今の自分だ、と思った。
もしかして今私は、洞窟に避難しているのかもしれない。なのに「私はここにいていいのか?」と、ずっと悶々としていたのかもしれない。せっかく洞窟に避難しているのに、ずっと心が「もう洞窟から出る時なのだ」、「ここから出なければ」と暴れていて、ろくに体も追いつかないままなのではないだろうか。
現実は一瞬で変わるけれど、心は遅れてやってくる。私は今洞窟にいて、そして「洞窟にいる自分を認める」ことが、必要なのかもしれない。
お風呂の中で何度も聞き返して噛み締めながら、救われた気持ちになった。


明日からまた仕事だ。正直不安だ。
でもきっと、洞窟の中でパソコンを立ち上げて、なんとか1日を乗りこなそう。
今日を何かある日にできない自分や、何かある日と解釈できない自分を受け入れて、
時々外へ向かって「ここにいるよ」と叫んでみよう。
答えが返ってきたら「ありがとう」とまた叫ぼう。今はそれでいいのかもしれない。

時深(ときみ)
時深(ときみ) @polasleep.bsky.social

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